小原安正氏の著書「ギタリストの余韻」はクラシックギターがどのように日本に定着したか?ということについて知るために必読書である。

ギタリストの余韻

現在のギター界がどのように成立しているか?ということも知ることもできるし、そもそもクラシックギターというのはどういうジャンルなのか?ということを考え直すのにも良い資料である。

2001年8月9日の日記をみると、以下のような文章がある。

小原安正氏の名著「ギタリストの余韻」は読み物としても、資料としても興味深い本である。「古賀ギターと対決する」という項目などは、昨日のことを思い起こして、いろいろと考えさせられる。「歌謡曲の伴奏楽器」としてのギターのイメージを打破するのに、小原氏は尽力し続けたわけである。

・・・で、日記は以下のように続く。

現在も「クラシックギター」というと、どうもイメージが掴みにくい楽器のジャンルであるようだ。私自身は「どんなジャンルでも弾ける独奏形態のギター演奏法のジャンル」として捉えているのであるが、「クラシックギター奏者です」と自分の商売を紹介しても、大部分の人が「?」という顔をするか、こちらがバッハとかベートーベンしか認めていない人であると早合点して「崇高な音楽をなさっている方なのね」とか「"禁じられた遊び"が弾ける人ね」とか、思われてしまう。仕事となれば、ポピュラーも演歌も弾かねばならないし、現代音楽も、古典もロマン派の音楽も弾かねばならない。本当に説明しづらい職業である。小原安正氏は全生涯を通じて、「クラシックギター」の素晴らしさを多くの人に伝えようとした。「ギター」という楽器につきまとう偏見との戦いでもあった。現在では、ギターと言えば「古賀政男」という人(または「クロード・チアリ」)はさすがに少ないが(年配の方にはまだそういう人もいるけど)、まだまだ他の偏見に近いものとの戦いでもある。それはギターと言えば「禁じられた遊びのナルシソ・イエペス」であったり、もっとナウいヤング(死語でーす)の間では「木村大君の弾くサンバースト」ということなのかもしれない。どれも否定はしないけど、どれかのイメージに固定するのは止めた方がいいと思うのですよ。クラシックギターは、とてつもなく懐の深い楽器だと思うから。と、いろいろ「ギタリストの余韻」を読み直し考えてみた。とりあえず含蓄深い本なので、ギタリスト以外の方にもお勧め。

・・・とまあ、いろいろと当時の私は悩んでいたようである。現在は「クラシックギター=ギター独奏のスタイル」というふうに考えている。

ちょうど5年前ほどに、木村大“バブル”があり、妙にへんてこりんな「自称プロ志望」生徒が多く、私のところを訪ねてきた時期であった。

かと思えば、年配の生徒は、「なんだか、カルリだとか音階練習だとかはやりないだよ・・・古賀メロディーさえ弾ければ」という感覚の生徒も多く、なんだが、教師として「レッスンポリシー」を見出せない時期であったのだろう。

いまだに、「サンバースト=クラシックギターの代表曲」みたいに思っている若い人もいるのかもしれない。それはそれでいいのであるが、なんだかソルやポンセがないがしろにされているのは、いたたまれない・・・

なんとなく成仏できない感じ(わかります?)がするんですよね。

結局、当時と同じ問題は現在も存在し続けているのであるが、私は私なりに、演奏や執筆を通じて、ギター史の啓蒙運動は地道で続けているので、だいぶ「ストレス解消」にはなっている。

でも、上記のような問題は消えていません。

だからとりあえず、ギタリストの余韻は読みましょうね。みなさん。