いろいろと生徒からメールをもらいます。
長い付き合いの生徒さんからたまにメールをもらうのはうれしいものです。最近は海外で暮らしている生徒さんからメールをもらうことも多いです。
先日、いまはアメリカの大学でギターを勉強している元生徒さんからメールがありました。彼を教えたのは小学生のころです。その後、ハワイのほうへ行きました。ハワイでもクラシックギターの勉強を続けようと考えたのですが、あまり良い先生に恵まれず・・・しかし、たまに日本に来たときに私がワンレッスンをしたりして「クラシックギターへの想い」を持ち続けてくれました。そして彼ももう大学入学。
2009年末に会ったときに、「作曲家か、ギタリストになりたい!」と言っていたので、どうなるのかなあ?・・・と思っていたのです。日本でいえば、高校生・・・将来どうするのか・・・悩んでいたのでしょう。
結局、アメリカ本土へ行き、クラシックギターの勉強をすることにしたようです。メールには日本の震災について心配する文面、クラシック音楽のコンサートがハワイに比べて多いこと・・・学生生活について書かれていました。
さて、肝心のクラシックギターの勉強は?・・・どうやら良い先生にめぐり合ったようで、しっかりと勉強しているようです。ギターアンサンブルのコンサートなども行っており、充実した学業生活を送っている模様。
そのメールの最後のほうに、私とのレッスンを思い出している様子が書いてありました。
そし て言いにくいのですが絶対彼のギター科の子達より富川先生の教室の生徒さん達の方が良い音(良い演奏)をしています。 薄っぺらい音というか、なんというか、 はっきり言って彼らはタッチが甘いのです。 プロを目指しているくせに。(アメリカは自由の国です。)○○先生自身はいい音を出していると思うのですが。 といっても富川先生や池田さんのように太く力強い音であるわけで もありません。きっともとの流派が違うのでしょう。 富川教室の生徒さん達はしっかりとしたタッチを伝授されていて、恵まれていると思います。僕個人としても 、富川先生の所で本当に「いいもの」 を教えて頂いていたのだなぁと痛感することがあります。 こっちのパーティングトン先生は不思議な事に右手のタッチは全く 修正してきません(左手を修正される事はあります)。「 いいもの」と言いましたが、「本場の味」 と言っても良いかもしれません。 これらの定義は人それぞれ違うでしょうね。 ただあくまでぼくにとっては、こっちのギター科の子は音は「 いいもの」には該当しないのです。 なんだかうまく言えませんが、富川先生の教えているものは「正統」であり、同時に「普遍的」なものだと思います( それとも正統なものと普遍的なものとは同じことを意味するのでし ょうか)。 先生の生徒さん達はきっと世界中どこへ行ってギターを弾いて も大丈夫というか、 つまり先生の教えているものは世界に通用するのだと思います。 それは実際僕自身が体験していることです。 土台がしっかりしているから、 外国でもみんなに演奏を楽しんでもらえるし、 新しいことを学ぶときもさほど苦労しません。
小学生、中学生のころ。彼は、僕や友人である池田君の音をしっかりと覚えていてくれたのです。
そして、それがしっかりと彼の「理想の音」になっている。
これはとてもうれしいことです。
同時に「教える仕事」にすごい責任を感じました。
そして、音に関して言えば、やはりホセ・ルイス・ゴンサレス先生からは「本物」を学んだのだなあ、とものすごい感謝しています。それが、結局僕の「音色の根本」になっているからです。このメールをくれた彼が感じた「普遍性」はそのホセ・ルイス先生が私に渡した音色や音楽観なのかもしれません。
そして、ホセ・ルイス先生は、その師匠であるセゴビアやレヒーノ・サインス・デ・ラ・マーサから「音色と音楽」を継承しています。
そういう意味では、彼が「普遍性」を感じるのは当たり前だったとも言えます。
やはり、西洋音楽の源流はヨーロッパにあると思います。
このことを考えるときに思い出す本があります。
中野雄さんの本です。この本の第10章に、ウィーンフィルとアメリカのオーケストラの違いが書かれており、それがそれぞれに「哲学」の差によってもたらされていることが書かれています。
私は常に同様のことをクラシックギターの「音色」についても感じてきました。
やはりスペイン系の奏者の音色のほうに惹かれるのです。ひろくとればヨーロッパの音のほうに魅力を感じます。そして、アメリカ系の奏者には何か「人工的」なものを感じるのです。
理由はわかりません。(それを解明するために勉強を続けてはいますが・・・)
先日、神成理さんの音色に「本物」を感じました。
友人の池田慎司さん(ホセ・ルイスの同門)も同じことを感じたようです。彼のブログで以下のように書いています。
「ギターの音そのもの」に魅力を感じる・・・この言葉は深いなあと思うのです。
これを伝えることは非常に難しいです。もちろん、技術的なことやメカニックの部分ではある程度までは伝授できます。しかし、最終的には「イメージ」の問題です。そして、それはどのような楽器をセレクトするか・・・という点にまで及びます。そして、右手や左手の問題だけではなく、「どのような音楽を作りたいのか?」という部分にまで行き着くのです。
このあたりを私はずっと研究し続けています。
「ホセ・ルイスの音がすごかった!」「セゴビアの音はすごかった!」と言うだけなら誰でもできます。そして、それを「こんな感じだったかな?」というふうに自分の感覚だけで口伝形式で教えること・・・これを行っている人も多いとは思います。
しかし、私はそれでは不十分であると思っています。
だからこそ、ホセ・ルイスという音楽家がどのような教育を受け、どのような音楽に影響を受け、どのような哲学を持っていたのか・・・そのことを含めて研究していかなくてはいけないと思っています。その作業は歴史なかの事実の断片を集めることなのかもしれません。落穂ひろいのような作業です。
私のギター史への興味は、このような理由もあるのです。
具体的な奏法理論史(?)にも興味があります。だから古今東西のギター教本や奏法理論の本を収集するのも大好きです。(・・・というより仕事ですね)
そして、その中で正当であり、きちんと確立されたものを生徒さんには伝授しているつもりです。
音楽表現の理論についても、だいぶ整理がついてきました。そして、結局は「そもそも音楽って何が大切なの?」という部分にまで思索はおりてくるものなのです。
上記のようなことを学び続けながら、整理すること。それを教えること。これが私の仕事です。クラシックギター音楽の歴史を継承するつもりで、ひとりひとりの生徒さんのレッスンを行っています。
上記に紹介したアメリカ在住の元生徒さんのように、「普遍性」を理解してくれる方をひとりでも増やすのが私の仕事なのです。
それを再認識させてくれた「お弟子さん」のメールに感謝です。こういうメールをもらったとき「ギタリストという仕事を選んでよかった!」と思うものです。