選曲は古典的な小品…といっても、オーソドックスなようでいて実はマニアックという選曲でした。1曲目は「ラグリマ」だったのですが、ギター講座では「ラグリマ」の弾き方に関して詳細な考察があります。単に指馴らしで簡単な曲から始めたのかと思ったら、それだけではなく、この簡単な曲が実は非常に難しいのだということが講座を読むと分かります。ただ、私としては「そこまで考えて弾いているのか」と感嘆する反面、引いてしまったのも確かです。正直、それほど面倒なものならクラシックギターなんてやりたくないな…と。この辺は難しいところですね。
実は私のコンサートを聴きに来た人の記事です。
確かにそう思う気持ちも分かるのですが、これを一言で「ひいてしまった」「それほど面倒なものならクラシックギターなんてやりたくない」と言い切られてしまうほど切ないことはない・・・
私は通常の生徒のレッスンで、「ラグリマ解説」で書いてある内容の全てを生徒に強制したりはしていない。実際にそこに書かれていることを生徒に強制したら、それこそ「そんな面倒なことやりたくない!」と逃げられてしまうだろう。だが、本当にある作品の真価をひきだすためには、ありとあらゆる角度から楽曲に立ち向かわねばならない。
私は「ラグリマ解説」で、楽譜からどれだけ情報を読み取り、表現につなげていくかを文章に書いただけである。そしてその情報の取捨選択をしているのは私であるから「私なりの解釈」である。私なりのアプローチで作品と対峙しただけである。
そして、フレージングを考えたり、アゴーギグの様々な可能性を試し、本番の演奏時はそれを全て忘れてしまっている。「次はリタルダンドだな・・・」とか「このフレーズはあそこまで・・・」ということは一切考えない。練習の時に、考えた表現を同化させてしまっているので、本番演奏時に「ラグリマ解説」に書いたことなど微塵も考えるないのである。「心のおもむくまま」「わたしの」ラグリマを演奏している。いわば、自動的に楽しんで演奏しているという感じ。
どの曲を練習する場合でも、さまざまな観点から楽譜を「読む」こと、そして表現の様々な可能性を試すことは重要である。人前で演奏するにあたって、「どう表現していいかわからない」という部分をすこしでも残してはいけない、と思う。充分に楽曲を分析し、演奏する・・・これが作曲家に対する礼儀であり、音楽をする人の「至上の喜び」であるはずである。
楽譜の奥にあるものを掘り起こす作業を「ラグリマ解説」では書いただけである。
アマチュアにはアマチュアの領分がある。「面倒くさい」と感じるのであれば、その手前でラグリマの表面の音の部分で楽しんだらいいのである。アマチュアにはその権利がある。私はアマチュアが純粋に楽器で「音を出すこと」を楽しんでいる姿を見るのが好きである。そして、『ラグリマ』は、音をだすだけで充分に楽しめる楽曲である。
ただし、一度、楽曲を解釈する「楽しみ」を知ってしまえば、その行為こそが「音楽をする」ということに気づくだろう。その解釈という作業を自分でするためには、経験といくつかのコツが必要である。そして知識も必要である。作曲家についての知識、音楽形式に対する知識、楽典の知識などである。それらの知識を総動員して、楽曲の分析をすることで、「音楽」が眼前に顕れてくる。
そのために割かれる労力は「音だけ出したい人」には意味のない「苦痛」「無駄」であるかもしれないが、「音楽をする人」には喜びと発見に満ちた時間であるのだ。
楽曲を解釈するために割く労力と時間は各人自由である。逆に、労力と時間を多く割くことができる楽曲こそ「名曲」といえる。それは同時に「音楽をする楽しみ」をたくさん我々に与えてくれる楽曲である証拠でもある。
無責任に「それほど面倒なものならクラシックギターをやりたくない」と言わないで欲しい。本人はそういうつもりで言ったのではないと信じたいが、この言葉は、音楽に対する侮辱ととられても仕方がない台詞である。真摯に音楽に取り組む人にとっては、「怠惰」から来る言葉であるとしか思えない。
私は音を楽しむアマチュア演奏家の態度を否定しているわけではない。ただし、もう一歩踏み込んだところに「音楽のプロ」は喜びを見出しているということを忘れないで欲しい。それがアマチュアで音楽を楽しんでいる人がプロの音楽家に払うべき礼儀である。
・・・私は生徒にレッスンを行うとき、「音楽を解釈していく喜び」が得られるように技術面、表現面から指導している。最終的には自分で楽曲を解釈する喜びを見つけてくれることを希望しているのだ。
たった数音の音のつながりから意味を発見する喜び、その音のつながりが自分の精神に与える影響、それを第3者に伝える技術、を私は生徒に「こっそりと少しずつ」レッスンしている。
そして、現時点での私の解釈のプロセスをまとめたものが「ラグリマ解説」である。明日にはそのアプローチは変わるかもしれない。おそらく、演奏するたびに新しい解釈が生まれてくるだろう。そのプロセスが楽しいから「音楽家」をやっていけるのである。
かなりの長文になってしまいましたが、ここまでお読みいただいた方ありがとうございます。