ぼんやりしていると6月がやってきてしまう。
2026年5月は、いろいろな場所で演奏する機会が続きました。
5月3日の教室発表会(ここでは僕は演奏してませーん)。
5月16日の「第2回 名器 尾野薫を聴く」。
5月17日のフルート教室でのゲスト演奏。
そして5月22日の歌とギターによる「にくあこ」ライブ。
それぞれまったく違う場でしたが、振り返ってみると、どれも「音楽は人の間に生まれるものだ」ということを感じさせてくれる時間でした。
まずは5月3日の教室発表会。
今年の発表会では、レオナルド・ブラーボさんと池田慎司さんをゲストにお迎えしました。教室の生徒さんたちにとって、これはとても大きな刺激になったようです。
発表会というのは、生徒さんが日頃の練習の成果を発表する場です。もちろん主役は生徒さんたちです。ただ、そこに第一線で活動している演奏家の音が入ってくると、場の空気が変わります。
うまい演奏を聴いた、というだけではありません。音の密度、フレーズの運び、ステージでの佇まい、楽器との距離感。そういうものは、言葉で説明するよりも、目の前で体験したほうが早い。
レッスンでは、技術のこと、音の聴き方、身体の使い方、楽譜の読み方などを細かく伝えています。ただ、それだけでは届きにくいものもあります。実際に「音楽がそこに立ち上がる瞬間」を見ること。
それは、学ぶ側にとって大きな経験になる。
発表会は、ただ一曲を弾いて終わる場所ではありません。ほかの人の演奏を聴き、自分の演奏を振り返り、ゲストの演奏に触れ、自分がこれからどこへ向かいたいのかを少し考える場所なのかもしれませんね。
そして5月16日には、中野区野方区民ホールで開催された「第2回 名器 尾野薫を聴く」に出演しました。
このコンサートは、尾野薫さんを偲び、尾野さんの楽器を実際に響かせるという趣旨の会です。第1部は尾野薫ギター愛好家による演奏、第2部はプロによる演奏という構成。私は第2部に出演し、尾野薫さんの楽器を通して演奏しました。
演奏曲目は以下。
光のない練習曲 A.セゴビア
思い出、牧歌、瞑想 R.S.デ・ラ・マーサ
グラナダの花 A.バリオス
レオナルドの歌 G.カサドー
プラテーロ、死 E.S.デ・ラ・マーサ
楽器には、作った人の考え方が残ります。
音の立ち上がり、余韻、音色の方向、鳴り方の癖。そうしたものは、図面や言葉だけでは完全には伝わりません。実際に手に取り、音を出し、会場に響かせてみて、初めてわかることがあります。
尾野薫さんのギターを弾くということは、ひとつの楽器を鳴らすだけではなく、その楽器を大切にしてきた人たちの時間を受け取ることでもあります。今回のコンサートには、そういう静かな重みがありました。
追悼の場で音楽を演奏する時、必要以上に感傷的になる必要はありません。けれど、何も感じずに弾くこともできません。大切なのは、感情をそのまま音にぶつけることではなく、作品と楽器と会場に耳を澄ませることだと思います。
翌日の5月17日には、フルート教室のゲストとして呼んでいただき、演奏する機会がありました。
ギター教室ではなく、フルート教室。そこにギタリストとして参加するというのは、とても面白い経験です。普段クラシックギターに接している人たちとは、音の聴き方も、息づかいへの感覚も少し違います。
フルートという楽器は、当然ながら「息」が音になります。ギターは弦をはじいて音を出しますが、音楽としてはやはり呼吸が必要です。
「タンゴの歴史」は、フルートとギターという編成の魅力がとてもよく出る作品です。ギターがリズムとハーモニーを支え、フルートが旋律を歌う。ただ伴奏とメロディーという関係に収まるのではなく、時にはギターが前に出て、時にはフルートの息づかいに寄り添う。そのやりとりの中で、音楽が少しずつ動き出していきます。
そして5月22日には、代々木アルティカセブンで、Acoustic Ladylandとして歌とギターのライブに出演しました。

この日は「にくあこ」という企画で、299とAcoustic Ladylandの対バンライブ。歌とギターという同じフォーマットでありながら、音楽の方向性はかなり違う二組。その違いが、ライブ全体の面白さになっていたように思います。
Acoustic Ladylandの演奏曲目は以下の通りです。
Adio Kerida セファルディ民謡
イグレシアス シルビア・ペレス・クルス
恋人たちの時刻 大貫妙子
さようなら 武満徹
ワルツ〜他人の顔〜 武満徹
Caro mio ben イタリア古典歌曲
夜へ急ぐ人 友川かずき
美貌の青空 坂本龍一
炎のたからもの 大野雄二
こうして並べてみると、かなり幅のある選曲です。
セファルディ民謡から始まり、スペイン語の歌、日本語の歌曲、武満徹、イタリア古典歌曲、ちあきなおみで知られる濃厚な世界、坂本龍一、そして「ルパン三世 カリオストロの城」の主題歌へ。
一見するとばらばらに見えるかもしれません。けれど、私たちにとっては、どれも「歌と言葉とギターの距離」を探るためのレパートリーです。
歌を支えるだけではない。ギターが前に出すぎるわけでもない。
言葉の余白、呼吸、音色、沈黙の間に、音楽の輪郭を作っていく。
Acoustic Ladylandで演奏していると、クラシックギターという楽器の別の表情が見えてきます。
クラシックギターは、どうしても独奏楽器として語られることが多い楽器です。けれど、声と一緒にある時、この楽器はとても柔らかく、そして時にかなり大胆な表情を見せます。低音で空気を作り、和音で景色を変え、たった一音の高音で言葉の意味を変えてしまうこともあります。
この日のライブでは、299との対比も大きな魅力でした。
299は、より身体的で、エネルギーが前に出る音楽。Adele、Queen、Rainbow、Stephen Stills、アニメソングまで、ロックやポップスの熱量をそのままステージに持ち込むような強さがありました。
一方でAcoustic Ladylandは、音数を絞り、言葉の内側に入っていくような音楽だったと思います。静けさの中に熱があり、音の少なさの中に濃さがある。そういう方向性です。
そして最後は、二組が一緒になってABBAの「Dancing Queen」「Chiquitita」を演奏し、アンコールではDeep Purpleの「Burn」。
5月3日の教室発表会で、生徒さんたちがゲスト演奏から刺激を受けたこと。
5月16日に、尾野薫さんの楽器を通して音と記憶に向き合ったこと。
5月17日に、フルート教室でピアソラを演奏し、ギターの呼吸について考え直したこと。
5月22日に、歌とギターで、言葉と音色と熱量の間を行き来したこと。
一見すると別々の出来事ですが、私の中ではすべてつながっています。音楽は、演奏者ひとりのものではありません。
作曲家がいて、楽器を作った人がいて、その楽器を守ってきた人がいて、共演者がいて、聴く人がいて、学ぶ人がいて、その日の空気がある。そのすべてが重なった時に、ひとつの演奏になります。
音楽の仕事を続けていると、どうしても準備や運営や本番の段取りに追われます。けれど、こういう時間が続くと、やはり音楽は人の間に生まれるものなのだと感じます。
この五月の出来事は、そのことをあらためて思い出させてくれる時間でした。









