審査をしたのは本選会のみです。
結果はGLCホームページのほうに掲載されています。
2011年度結果
以下、私の審査基準を示しておきます(GLC本体としては事前に審査基準を話あうことはありませんので、以下に書くことはあくまでも「私の審査基準」です)。
審査をするということは非常に責任を伴います。課題曲について事前にリサーチをすることは勿論です。そして、可能な限り自由曲についても事前に楽譜を参照します。
その上で、以下のことを目安に判断します。
- 楽譜の正確な読みができているか?
- そして、読み取ったことを的確に表現できているか?(伝わっているか?)
- ギターの特性をしっかりと活かしているか?
ソルなどの古典などの場合、しっかりとした信頼できる版を使うこと・・・これは出場者がたとえ小学生であった場合でも、指導者の責任でちゃんとした版を使用すべきです。もし、大学生であれば、いわずもがな。きちんとした版を使うことが前提となります。もちろん、入手しやすい版を利用しても基本的に採点には大きく影響しないようにはします。しかし、版にこだわった演奏者の演奏は説得力を持つものです。
そして、その適切な版にしたがって、作曲者の記した指示、時代の様式にあった演奏をしているかどうか?・・・これがもっとも大切です。音楽全般のルールもきちんと理解して表現できているかどうか?・・・これも大切です。
2に関して。読み取ったものを的確に表現する。つまり、聴いている側に届けることができるかどうか?はテクニックがあるかどうかということに関連してきます。そして「ある表現」を表すためにテクニックはあります。「ただ間違わずに正確に弾く」 「音階が速く弾ける」というのは「テクニック」ではありません。
この観点から私は技術点を付けます。その人が言わんとしていることが明確に伝わってきた場合、「技術点」はあがります。逆にいうと、こういうことをやりたかったんだろうなあ!・・・と分かっても、技術が安定していないために伝達力が不十分に終わるという場合もありますね。
何かを伝えたいという意欲だけが先走る場合も多くあります。しかし、それを練習時に確認し、コントロールされた技術を身に付けておく・・・というのが理想的です。 でも、それはプロの奏者でも難しいですね。
逆の場合もあります。自分が持っている技術の中だけで「音楽をやろうとする」演奏者。最近のコンクール演奏者に多いタイプです。実際、今回もそのような人を多く見かけました。残念なことです。
3に関して。ギターの特性・・・簡単にいってしまえば、ギターらしく!です。すごく抽象的なことですから、言葉では説明しずらいですが、簡単にいってしまえば、音色のバリエーションです。それがあるかどうか・・・そしてその音色が上記2で話した「自分が伝えたいこと」のために機能しているか?です。
上記、1、2、3、全て関連しています。例えば、3のギターの特性ですが、音色のことです。音色というものは子音と母音から成立しています。簡単に言ってしまえば、「サシスセソ」なのか「パピプペモ」なのか「カキクケコ」なのか・・・。そして1の過程から考えると、作曲者の頭のなかでそのメロディーやハーモニーの響きがどのような子音と母音のイメージで鳴らされていたのか・・・考えなくてはいけません。だから、フランス人の作曲家であれば、フランス語のイメージで音色をイメージしているはずです。
スペインの作曲家の作品を演奏した人が多かったですが、私には作曲家の声が聞こえてくる人は極めて少なかったです。一言でいってしまえば、「もっとギターらしく!」なのですが、上記で述べたように実は楽曲の解釈の時点からこのことは考えなくてはいけません。ギターはものすごく子音と母音のニュアンスの差が出しやすい楽器です。
一般的にギターは「いろいろな音色がでるね!」と言われていますが、それを楽曲の解釈としっかりとリンクさせて表現できる奏者が、本当の「ギタリスト」であり「音楽家」です。
以下は個人的な意見です。
「かりものの表現」というのがあります。小中学生であれば、先生やCDなどの録音をそのまま「マネをする」という表現もよいと思います。実際、学ぶは真似ぶ・・・とも言いますしね。
でも、その借りてきた表現に対して、心から納得しているか?していないか?・・・はとても重要です。
演奏は舞台上の俳優の行為に似ています。ストーリーはあらかじめ分かっていますし、俳優さんは何回もセリフを読み、その役柄の運命は知っているのです。でも、舞台上ではあたかもその時点での自分の行為や状況の変化に一喜一憂しなくてはいけません。喜怒哀楽を心から感じ、そしてそれを適切なセリフまわしやアクションでお客さんに伝達するのです。
音楽を演奏する人もそのような心持ちで臨まなくてはいけません。そのとき、自分が繰り出す一音一音、フレーズ毎にその音楽が目指すものをしっかりと「感情」として反芻しなくてはいけません。
毎回、自分のなかに感動を呼び起こさなくてはいけないのです。そして、その感情の濃度は実は演奏ごとに微妙に変化することもありうる・・・ということを忘れてはなりません。 だからこそ、ありとあらゆる表現の可能性を考えて、作品を常に分析し、可能性を探っておくのです。どのようなパターンに対しても対処できるように技術を磨いておくことが、本番であたかも「インプロビゼーション」のような「本当の音楽」を生み出す拠り所となります。
そのような演奏ができている人は本選出場者にはほとんどおりませんでした。とはいっても、学生のコンクールですので、この点に関しては私は審査基準には全くしていません。あくまでも、それが「借り物の表現なのかもなあ・・・」と思っても、きちんとお客さんに伝わる形で楽譜からそれなりに音楽を抽出していれば、きちんと評価したつもりです。
ただし、本当の音楽をやりたいのだとしたら、上記のことは絶対に理解しなくてはいけません。そして、音楽を続けていれば、それは自然に理解されてくるものだと思います。それが理解できなけば、音楽をやる意味はないともいえます。
以上、だらだらと思いつくまま書きました。
あくまでも、私個人の意見です。審査員の総意でもありませんし、審査員団の審査基準というわけでもありません。その点を考慮してお読みいただければと思います。